長崎原爆忌
今日は長崎原爆忌です。
長崎の被爆者も3万人を切ったそうです。この中には当時幼過ぎて記憶にない方もいるでしょうし、認知症になってしまわれた方もいるでしょう。遠くない将来、《生き証人》はいなくなってしまうのですよね。もちろん今後世界中のどこにおいても核兵器が使用されないことが前提ですが。
長崎では9日が登校日でしたが、全国的には6日のようですね。だから子どもたちは、かろうじて「6日」が何の日なのか知っていましたが、今日9日のことは殆ど知らないようでした。子どもたちの祖母世代ですら、あえて尋ねない限りは意識に上らない日になっているのだと思います。さすがに長崎市民はこの限りじゃないでしょうけれど。
ところで、毎年この時期になると思い出すのが、小学生の頃夏休みに読んだ《原爆読本》。その中の1冊は、その後何度も読み返し、忘れられない本になっています。映画化もされたので、ご存知の方もいるかも。タイトルは《夾竹桃の花咲くたびに》―確か五十嵐めぐみが「竹子先生」役だったと。
画像を探したら、ありました!本当は勝手に貼り付けちゃいけないのでしょうが、ごめんなさい、どうしても紹介したいので・・・
低学年向けの本は殆ど記憶になく、高学年向けの本はオレンジ色の表紙で難しい印象がありました。だから学校を通して母に買い与えられたのは3、4年生頃だったのだと思います。5,6年生になって読むには読んだのでしょうが、表紙以外の記憶はありません。物語風ではなかったのかもしれませんね。タイトルは《原子野の声》だったかな。
ずっと前にもこのブログで触れたことがあるのですが、(電子書籍chnops抄1でも)《長崎の原爆》は、私にとっては《究極のイフー畏怖ではなく if 》なのです。
もし、長崎に原子爆弾が投下されず、母の父が亡くなることがなければ・・・おそらく・・・(いえ、もっと高確率、絶対に、と断言してもいい)母と父は結婚しておらず、ゆえに《私》は生まれるべくもなかった。
存在していない自分を想像することは・・・想像以上に難しいものです。存在してしまった以上は。
仮面も鎧も
要らない
人の目も口も
気にしない
ーかくありたき!