長崎:セピア色の写真
先々週に続いて先週も長崎に帰省しました。
母の入院で父も気弱になったのか、私と弟を呼び「万一の時には云々・・・」と遺言めいたことを口にしました。神妙に承りましたが、私も弟も《死んだあと》のことより《生きている間》のことの方がよほど気懸りです。
現実問題として、母が退院したあと、老夫婦二人で坂の上にある《あの家》に住み続けるのはかなり困難だと思うのです。
母は今回の緊急入院前、なにかしら予感があったのか、「要らないものをかなり処分した」と言っていましたが、どこをどう処分したのか、サッパリわかりませんでした。家はいつもスッキリと片付いてはいますが、箪笥や戸棚、本棚、押し入れの中には物が溢れています。一生着ることもないだろう服、使うこともないだろう食器、読むこともないだろう本・・・。
モノのない時代に育った二人ですから、一所懸命働いて、モノを買い溜めていくことが生きる張り合いでもあったのでしょう。「使ってないでしょ、要らないでしょ、捨てていい?」とは口が裂けても言えません。はぁ~~。
ところで、父は今回、古いアルバムも見せてくれました。そこには初めて見る父の父の写真もありました。超イケメンでびっくり!!です。
父はもちろん、私の知っている叔父たちの誰とも全然似ていません。
末っ子の叔父だけがちょっと日本人離れした顔つきをしており、祖母や父、ほかの叔父らとは違っていたので《祖父》がハンサムであったろうことはこどもごころにも想像はしていましたが・・・。う~ん、これほどのイケメンだったとは!(身贔屓かしら?)
上の写真を眺めると、残念ながら、私も祖父に似ているところはひとつもなく、父(すなわち祖母)譲りなんだなぁと 改めて思います。(ほんっとに残念!!)
父は七人兄弟の四男ですが、実質は長男でした。上三人が夭逝したのです。その三人のうち成人したのは長男だけ。次男、三男は幼いころに他界したそうです。
長男は23歳(上の写真の僅か1年後)で他界。肺結核だったのかもしれません。歌舞伎役者みたいな趣がありますよね。この伯父さんにも会ってみたかったな。
とはいえ、それは叶わぬ望みですね。もし、祖父や長男が生きていたら《私》が生まれていないことは、明白ですから。(Chnops抄に記した通りに)
で、父曰く「四男の自分を中心に三、二、一の順で亡くなったから次は五、六、七で最後が自分」だと。実際五男は亡くなり、父は《父の法則》を信じているようなフシがあります。不謹慎ですが・・・。
ところで母は、原因不明のしびれで痛み止めが効いているときでないと動けませんが、アタマもクチも以前と変わりありません。「頼みがある」というから何かと思えば「おばあちゃんが大事に育てた糠床の悪い部分を捨てて残りを冷凍しておいて」とのこと。
冷凍しておけば4ヵ月は大丈夫なんだとか。退院後また糠漬けを作る気なのでしょうか?「あの糠床はお父さんより年上だからね、ダメにしたらおばあちゃんに申し訳ない」と殊勝なことを呟いていました。
もちろん、仰せの通りにしましたが、どこまで捨ててよいのか判断に迷いました。ちょっとでも悪いところが残っていたら残りもダメになるだろうし、思い切って3分の1ほど捨てたのですが、捨てすぎと怒られるでしょうか?上の部分だけでよかったのかも・・・
思い出す度
少しずつ
書き換えられ
脚色されていく
記憶
さて、せっかくの長崎ですから市内の写真を一枚アップして終わります。ちょっと珍しい風景ですよ。