長崎ランタンフェスティバル
1月29.30日、夫ともに長崎帰省。
出発時は生憎の雨でしたが、新地中華街会場に着いた頃は小雨に変わり、中国雑技団のパフォーマンスを観ることもできました。
動画をアップしますね。本当はこのあとにクライマックスシーンがあり、それも撮っていたのですが、他者の顔が写りこんでしまい、アップできませんので、この映像で。
沢山撮影したように思っていたのですが、意外と少ししかありませんでした。
本当は夜の方が幻想的で綺麗なのでしょうが、なにせ実家の夕食は午後6時ですから、それまでに戻らねばならず、明るいうちに会場を後にしました。
夕食のメインは夫が朝早くに志摩の四季で調達したハマチとヒラスの刺身。身が締まっていて父も母も喜んで食べてくれました。
翌朝、母は歯医者へ。車で送るというのに「だぁいじょうぶ!」と一人でコミュニティバスに乗って出かけました。
そして・・・ザボンに豚まん20ケ、大きな竹輪5本と結構な荷物を持って帰宅。
ザボンは外皮をむき、内皮(?)でザボン漬けを作るのです。
母手作りのザボン漬けを食べたことはありましたが、作り方を見たのは初めて。ザボンの果肉を食べたのも初めてでした。味は、ジューシー感のないグレープフルーツといった感じ。
さて、ザボン漬けの作り方は・・・難しくはなさそうですが、結構手間ひまかかるようです。
何度も水をかえてアクを抜いた後、大きな鍋で煮るのですが、砂糖水で煮るので、焦がさないように鍋の傍についていないといけません。そうして煮あがったものを天日に干す。(母は干物用の四角い網ネットを使用)干しあがったものにたっぷりのグラニュー糖をまぶす。
こうして出来上がったものは冷凍しておくとかなりもつのだとか。
それにしても、色々と動き回ったり、作ったりするのはリハビリを兼ねているのだとはいえ、我が母ながらマメだなぁと感心します。(娘の私はちっとも似てないのですけれどね。)
母が退院して2ヶ月とたたないのに、父は2キロも太ったそうです。もっともこれは母の手料理のせいばかりではなく、このところあまりスポーツジムに通っていないこともあるのでしょう。通うことが億劫になっているようです。
父は前回、被爆体験記を執筆中でしたが、今回書き終えていました。400字詰め原稿用紙に20数枚。清書して製本してほしいとのこと。
今日、早速ワードで編集を始めましたが、色々と調べたいことも出てきて、作業は簡単には終わりそうにありません。
ですが、原爆投下から75年、被爆者のナマの声は貴重でしょう。父の為というより自分の為にもきちんとしたものを残しておきたいと思います。
生まれて初めて
学校をサボった日
原子爆弾炸裂
命拾いした
14歳の少年
14歳の少年とは父のこと。正確には学校ではなく学徒動員先。あの軍国主義の時代に「サボる」などもってのほか。それなのに、空襲警報が解除になったあともなぜか家を出る気になれず、結果命拾いしたのだそうです。
父はこれを虫の知らせどころか神の知らせのようだと語っています。
あらら、いつの間にかランタンフェスティバルからだいぶ逸れていましたね。
今日から2月・・・。