久し振りの長崎で・・・
曾孫の動画を見せに、岡山土産を持って実家へ。
「かわいか、かわいか」と大はしゃぎする母の傍らで、父は相変わらず無関心。
藤井君の将棋を観ていたこともありますが、父が素直に喜べない理由は・・・
遡ること50数年前の、私の出生前後のある事柄と関係があることは明白でした。
以下はあまり楽しい話ではないので、BGMでも聴きながらさらっと読み流して頂ければと思います。
夜9時、母が自室で休んだ後、父がポツリと
「お父さんはもう長くない・・・お前に謝らないといけないことが3つある」と、どもりどもり話し始めました。(父の吃音はますます酷くなっています。不思議なことに英語を話す時はどもらないとか)
「お前が2,3歳頃、ひょっこりひょうたん島を歌いよった時『やかましか!』とどなってしもうた。 父親なら『上手になったね~』と褒めてやらんばいかんとに、お父さんはお母さんのことでイライラしとって、つい・・・。父親として情けなかことばした」
父のこんな告白は、らしくなく、本当にもうアブナイんじゃない?と一瞬思った程でしたが、長くない、と自分で思っているだけでしょう。
たしかにあと20年は無理でしょうが(可能性0ではありませんが)ここ2,3年のうちに・・・というわけではなさそうです。
耳が遠くなっても、動作全体緩慢になっても、それだけで命に拘わるわけではありませんから。
「それからお前たちの結婚ば許さんかったこと」
反対されたから《時間差駆け落ち》したわけではないのですが、父としてはそう思い違いをしていたのでしょう。
3つ目を話す前に父は1つ目のことに戻り、なぜ「イライラしていたか」を説明し始めました。
(なので、3つ目が何かは聞きそびれました!)
「〇〇(弟の名)には絶対話せん。」―同じセリフを40年前にも聞きました。
「〇〇は男だから、お父さんの気持ちがわかるだろう。聞いたらお母さんを絶対に許さんだろうから」
「お前も母親の悪口は聞きたくなかろうが、お父さんは45年も裏切られ続けてきた。18も年上のあの医者が死ぬまで!」
8歳の時に原爆で父を亡くし、10代から看護婦として働き始めた母にとって、18も年上の医師は、父親のような存在だったのだろうと、そこは母に同情します。
母は「一度きり」で、あとは父の妄想だと、当時もその後も言い続けましたが、どちらの言い分が正しいのか、今となってはわかりません。
おそらく「一度きり」ではなかったでしょうが、父が思うほど頻繁に逢瀬を重ねていたとは考えにくいですが。
いずれにしろ二人が別れなかったから、私はもちろん、私の娘や孫、そして弟、甥、姪が今ここに存在しているのですから、もういい加減、水に流して、これからのことだけを考えたいところ。
とはいえ、来年卒寿を迎える父が「これから」という明るい未来を思い描けないのは致し方ないことでもあるでしょう。
前にも書きましたが、身体はどんどん衰えるのに、頭だけはしっかりしているというのは残酷なものだと思います。
娘なら、せめてそういう父に寄り添うべきなのでしょうね。
傍にいるという意味ではなく精神的な支えという意味ですが、父に同情や一部共感はしても《寄り添う》気持ちは湧いてきません。
母に対してもまた同じ。
ある種のわだかまりは、生涯消えることはないでしょう。
それを表に出さないだけの分別は身に着けましたが。
娘だった私が
母になり
祖母にもなったのに
17歳のあの日のまま
時は凍結されている