ちのっぷすの徒然五行歌

CHNOPSの塊に過ぎない私になぜ意識が生じたのか

今日の五行歌283~従姉の死によって

伯父の訃報

昨夜、母から電話があり「小島のおじちゃん」と呼んでいた母の兄である伯父が、朝方ひっそりと息を引きとっていたそうです。

享年89歳。

伯父は施設に入所していました。

晩年は認知症の症状が出ていたそうですが、ADLには特に問題なく、手のかからない穏やかな「おじいちゃん」だったようです。

「そうです」とか「ようです」としか言えないのは、ずっと伯父に会っていなかったから。

たしか弟の結婚式(17,8年前)に会ったのが最後だったと思います。

そのころ既に妻は他界しており、二人の子供は独立していましたから、しばらくは一人暮らしを続けていたことになります。

数年前(もっと前かも?)施設に入所したと聞き、いつか訪ねて行こうと思っているうち、コロナで面会禁止。とうとう会えずじまいでした。

イトコ達とも20年以上会っていません。従妹は東京在住なので、次女が進学で上京した際、連絡を入れたのですが、折り返しはなく、年賀状への返信もなく、結局音信不通のまま。

話は逸れますが、母の兄の子どもなのに従兄でも従姉でもなく従弟と従妹なのは、従姉にあたる「みぃちゃん」が小さい頃に亡くなったから。

「桃を食べて死んだ」と聞いた記憶がありますが、定かではありません。なにせ60年以上前の、私が生まれる以前の話ですから。

認知症になった伯父は、それでも生涯この愛娘のことは頭から離れなかったでしょう。

その後授かった次女を溺愛していたのは、このことがあったからだと今ならば分かります。

そして・・・もし従姉が亡くなることがなければ、従妹は(従弟も)生まれてはいない。従弟や従妹に似た人は生まれていたに違いありませんが・・・

このことは夫とその兄弟姉妹全員にもいえ、なんだか不思議な感覚に陥ります。

そんな身近な話だけでなく、地球上に存在するすべての人が誰か(というより何か)の死によって生まれたのでしょうけれど。

話を現実に戻します。

今日が通夜で、明日が告別式。

帰省できないことはなかったのですが、葬祭場でも「他県の方はご遠慮ください」なのだとか。

母の「香典はあなたの名前で包んでおくから、来なくていい」に甘えることに。

私はこの年にもなって、二人の祖母と一人の伯父の葬儀しか経験がありません。それも10代の頃ですから、大人になってからはないに等しい。

父の弟や義兄、最近では義妹の父など、親族の葬儀にすら参列していないのです。

そう遠くない将来、喪主に近い立場で見送らねばならない日が来るでしょうし、その後は自分が見送られる立場になるはずなのですが・・・。(もっとも自分に関しては「葬儀はしない」派ですが、どういう扱いを受けるかは「死んだ私」には分かりようもないですもんね)

偶然でも/必然でも/どちらでもよい/

死なない限りは/生きている

わけだし、

人はみんな/死ぬけれど/

死んだことのある人は/ひとりも/いない

のですから、こればっかりはね~~

ちょっと一休み。以下の曲もフィルスペクターのプロデュースじゃないかなぁ。

クライマックスがそんな感じ。


George Harrison - The Day The World Gets 'Round - Lyrics

最近、《昔》に引き戻されることが続いています。

前回のブログに書いた《岡田米穀店》の看板娘Kちゃんからはすぐにメールが届きました。

私の旧姓だけではピンとこず、当時のあだ名で「わ~懐かしい!」と思い出したとか。

ご両親亡き後、店を閉めるかどうか迷ったそうですが、お兄様と二人続ける道を選んだのだそうです。

《岡田米穀店》の評判はとても良いのですが、二人を《兄妹》ではなく《夫妻》と勘違いしている口コミも見られました。

次回帰省の折にはお店を訪ねてみようと思います。

従姉の死によって

生を享けた従弟と従妹

義姉の死によって

生を享けた夫とその兄弟姉妹

そんな例は世の中無数にある