ちのっぷすの徒然五行歌

CHNOPSの塊に過ぎない私になぜ意識が生じたのか

今日の五行歌297~終の棲家

マンション狂騒曲

3日のお昼過ぎ、から電話がありました。

そんな時間にかかってくることはまずないので、何か悪い知らせなのかもと一瞬身構えましたが、

電話口のの声はなんとなく照れたような感じで「今マンションのモデルルーム、見にきとっとさね、で、お父さんがすぐ買うっていいよっとさね」

?!え?!え?!い、いくらなんでも、あんまり急じゃない?

30日に帰省した際、マンションのパンフレットは渡していました。

興味はないだろうと思いつつも「買うなら新築、できれば玉屋跡地の」と言っていたマンションが、予約販売を始めたので資料請求だけはしておいたのです。

届いたのはマンションの外観予想図とお勧めの間取り4,5枚。

それをそのまま置いてきたわけですが・・・

私が帰った後、モデルルーム内覧の予約を入れたのでしょうね。ビックリです。

「朝10時に見に来たとさね、ほかにも何組かお客さんおって、もちろん別々に説明受けたけど、2時間近くもかかってね。(だからお昼ごろの電話だったのか)そいで、お父さん、10階以下は空気が悪いから絶対嫌って。でももう上の方は殆ど売れとって、17階と20階に空きがあったとさね、そいで、17階のを買うって」

電話口が騒々しかったので、モデルルームから直接かけてきていたのでしょう。

「早うせんと売れるけん、今すぐ契約ばって言われたけど、いくらなんでも娘と息子に相談してから、って保留にしてもらったとさね。あんた、いつ来れる?」

ちょ、ちょ、ちょっと待って!ン千万の買物ですよ。それを80代の夫婦にその日のうちに売りつけるって?

もともと9.10が連休で帰省するつもりでしたからそう伝えると「10日の10時にまた一緒に」ともう、私の許可さえ得られれば、その10日に手付金を入れるような勢いでした。

「アタシが勝手には決められんよ、トシ(弟)はなんて言いよると?」

「なんか怒られたけど・・・耳の遠してようわからんやったとさね、あんた、夜にでも電話してみて」とのことでしたが、そのからすぐさま電話が入りました。

開口一番「反対しろ!!」「買わせるな!!」

「日本は10年後、ないも同然の国に成り下がるのが分かり切ってるのに、今更何千万も出してマンションなんか買ってどうする!」

「それよりなにより、今日見たばかりで、契約迫るような営業マン(女性だったようだけど)が信じられるか!」

確かに、それはあり得ない信用できない!

でも・・・

やっとあの高台から平地に移る気になってくれたのよ、あの家でいつまで暮らせる?

買ったとして、入居は来年の11月とまだまだ先だけど、それまで張り合いもあるでしょう。

気に入ったのなら、買わせてあげてもいいじゃない・・・

たとえ1年か2年しか暮らせないとしても、それはそれでいいじゃない。

どうせ、いずれはあなたたち夫婦のものになるのよ・・・

と言いたいのをぐっとのみこんで・・・

「でも、買わないよう説得できる自信はないなぁ~~」と電話を終えたのでした。

その後、義妹にメールしたところ「気分転換にモデルルーム見てきたらどうですか?」と勧めたのは彼女だったとのこと。

ですが、まさかその日のうちに契約を迫られ、「あのお義父さんが買うって言いだすとは!」と絶句。(どんな営業トークだったのだろう?聞いてみたかったわ~。)

 「そんなに契約急がせるなんてウチの子たちですら『ありえん!!』って言うほどですよ。胡散臭すぎですよね!」

まさに、その通り、胡散臭いとしか言いようがない。

それでもあの父買うというものを買うなとは言えそうにない、一体どうしたらいいのだろう・・・と悶々としつつ、翌日は仕事に行き、帰宅後ほどなくまたから電話。

一転、「マンションの話は断ることにしたけん」と言うではありませんか!

「あの後、トシから『その日のうちに契約迫るとかありえん!』って怒られてお父さんも目の覚めたごたる。珍しゅう『おいもどうかしとった気のする』と自分の間違いば認めてさ、アタシははじめっからなぁんもひとことも言わんかったと。お父さんが買うていうなら買うてよし、買わんっていうなら、それもよし。」(と言いつつ少し残念そうなニュアンスもなきにしもあらずでしたが)

「明日の朝一番に電話して断るけん、ちゃんと断った後でトシたちにはまた電話する」

との言葉通り、翌朝断りを入れ、話はなかったことになりました。

―というわけで一件落着

なんだかジェットコースターのような展開、ほんとにお騒がせ。まさにマンション狂騒曲。

でも・・・

正直なところは・・・

チョッピリ残念な気もします。

花園幼稚園伊良林小学校桜馬場中学校、そして長崎東高校・・・あの近辺がホームグラウンドだったわたし・・・しかも玉屋の跡地・・・

浜の町の浜屋や岡政は、こどもがひとりで入れるデパートではありませんでしたが、新大工玉屋は気軽に遊びに行けたのです。

1階のファンシー売り場でパンダ(当時カンカン・ランランが大人気、パンダブームが起きていた)のイラストの入ったメモ帳や絵葉書を買ったり・・・

もう少し大きくなってからは、5階のレコード売り場にもよく行きました。

《コンドルは飛んでいく》が入っているLPを初めて買ったのも玉屋でした。

6階の食堂は、私はあまり縁がなかったけれど、弟は幼稚園の帰り、祖母と一緒にホットケーキを食べていたようです。

従姉夫妻も玉屋に勤めていました。従姉が就職した頃くらいからデパートはだんだんと斜陽にむかっていたのかもしれませんが(ダイエーなどの大型スーパーが台頭してきて)、それでもまだデパートがデパートらしかった時代でした。

そんな古き良き時代の思い出の地・・・

昔の長崎しか知らない私にとって新大工の、しかも玉屋跡地電停まで1分という好立地のタワーマンションが5000万円台(もちろん最上階は億ションですが)というのはそれほど高いとは思えないのですが、

口コミサイトをみると

 「五島町あたりならともかく、あの立地であの価格は高すぎ

今は夢彩都やアミュプラザのある五島町から長崎駅周辺が人気スポットなのでしょうね。

「市は長崎駅から浦上駅周辺を重点的に開発しており、新大工・浜町は取り残されているようだ」との書き込みも。

でも夢彩都やアミュプラザも、いつかは玉屋やダイエーのような道をたどるでしょう。

それがいつ頃になるのかはわかりませんが・・・。

の言うように日本の将来は明るいものではないでしょうが、少なくとも両親存命中はまだなんとか持ちこたえていると思うのですが、ね。

それはともかく―

が入院していたのはもう1年半以上前のこと。

当時「退院後に高台のあの家では絶対に暮らせないから」と度々帰省し、平地の中古マンションを探し回っていたっけ。

父や弟、夫と共に何件かは見たものの、これという物件はなく、母自身が「私はもう一度元気になる!」「あの家でまた暮らしてみせる!」「買うとしても絶対新築!」と譲らなかったこともあり、立ち消えになっていたのでした。

実際、は退院後、みるみる元気に。(反対にの方がめっきり弱りましたが)

相変わらず転んだり、救急車で運ばれたりもしたものの、新大工へ買い物や歯医者に行ったり、洗濯や料理等の家事もこなしています。

母自身は本当はどうしたかったのかなぁ?

口コミには、事実かどうかはわかりませんが「15階以上は殆ど空きがない状態」ともありました。

(元玉屋の従業員の中には欲しいと思う人も少なくないかもしれませんね。玉屋の最盛期に勤めていた人たちなら手の届かない金額でもなさそうですし・・・。)

それが本当なら営業トークも強ち嘘ではなかったことになりますが、それにしても当日契約はいくらなんでもありえませんよね。

さて、次の連休はどうしましょ。

「話はなくなったけん、もう帰ってくる必要はなかよ。」と言われたけれど・・・

終の棲家

どうするのだろう

どこになるのだろう

親の話だけではない

自分らのこともだ