ちのっぷすの徒然五行歌

CHNOPSの塊に過ぎない私になぜ意識が生じたのか

今日の五行歌690~見えないものを

龍国寺探訪その②

前回の続編です。

25日で終了した《草木染天で、安田ゆりさんの型染曼陀羅亀山ののこさんの写真を鑑賞させていただいた後、さらに素敵な出会いがあったのです。

ーとその前に、龍国寺のお庭の佇まいも撮らせて頂いたので、写真をアップしますね。

庭園も素晴らしかったですが、お堂の中の調度品や絵画も目を奪われるものばかりでした。

現住職の曽祖父様だそうです

ご住職の絵とお庭の写真を並べてみました。

お庭の様子は昔も今もほとんど変わっていないようですね。

お地蔵様?観音様?

亀山ののこさんの写真が展示即売されていたすぐ横に、ぐいっと引き寄せられた書画が!

ため息をつきながら、じっと見入っていたところ・・・

ハプニング発生!!

突然、警報器が鳴りだしたのです。

剃髪の女性が駆けつけて来られ「今日、解除するのを忘れてました」とリセット。

不法侵入があった場合に備えて、普段はオンにされているのでしょうが、イベント等の時は、いちいち反応しないようにオフにされるのでしょう。

それを「忘れていた」らしいのです。

でもそのおかげで、気になっていた書画についてお尋ねすることができたので、何が幸いするかわかりませんね。(ほんとにラッキーでした)

剃髪の女性は、龍国寺のご住職甘蔗理愛さんでした。

ご住職についてはインタビュー記事を見つけたので、貼らせて頂きますね。(本当に素敵な女性です!)

連載:お寺の女性の今、そしてこれから [3] -甘蔗理愛さん|未来の住職塾 (note.com)

書画についてお尋ねすると、ご自身がわからないことはお母様(でしょうか?違っていたらすみません<m(__)m>)に聞いてくださり、上掲の書画の作者名がすぐにわかりました。

佐藤カツヒコさん、カツは勝利の」と聞いた瞬間「宇宙物理学者の佐藤勝彦先生と同姓同名?!」とこのタイミングでのその偶然にちょっとビックリ。

曼荼羅も宇宙を象徴しているといいますし、実際、鑑賞されていた染色家らしき女性数人の会話からも「宇宙・・・」という言葉が漏れ聞こえていたのでした。

その場でスマホで調べたら、お二方の画像や作品、著作物などがヒット。

(帰宅後にゆっくり検索しなおし、古本ですが佐藤勝彦氏の画集をアマゾンにて注文)

もう一つ気になっていたのは、画面から飛び出さんばかりに疾走する馬の絵。

馬の絵の上には昭和の糸島の写真がずらり

これについては、お母様が詳しく教えてくださいました。

有馬トオルさんといってね、トオルは達人の。お医者さんしながら、仕事が終わってから、絵を描いたり、陶芸されたり・・・。いつもランニング一枚でね。」

「え?本業はお医者様なんですか?仕事が終わってから描かれていたのですか?」

「そう、寝るのは3時間位だったって。数日後に個展を開くというときに突然亡くなられてね・・・」

作品集を見せてくださったばかりか、別の部屋に飾ってあった花器も、わざわざ明るいところに持ってきてくださいました。

見せて頂いた作品集と有馬氏作成の花器(さしてあるのはいぐさ)

残念ながら「佐藤勝彦」さんと違い「有馬達」さんで検索しても、ネット上に記事を見つけることはできませんでした。

ですが、見せて頂いた作品集のあとがきに、有馬先生ご自身が文章を寄せられていたので、それを引用させて頂きますね。(お人柄が分かると思います。)

知命を過ぎてから始めた遊びも六年目を迎えた。この六年間は時間を追い、時間に追われての毎日であった。睡眠をとらねばならぬことに腹立たしささえ感じていては、とても遊びとはいえないのではないか。作りたいから作り、画きたいから画くだけのことなのだが、心と手が一体になるのには習練を要することだし、その為には時間が充分に必要なのである。

このあと「看護婦」さんや患者さん達への謝辞を述べ、最後に

私は医者を辞めない限り、この二足のわらじをはかねばならない。詩書画三絶をよくした先人に学びながら作陶の醍醐味をあじわうことが出来たら、この限りある人生もまた楽しいものになるに違いない。

と、締めくくっておられます。

知命とは50歳のことですから、これを書いたのは56歳の時(今の私より年下!)、随分と達観しておられるなぁと感服。

書も画も作陶も「遊び」ではじめてわずか「六年」でこの域に達するなんて、超人としか思えません。(作品集の中をお見せできないのが残念!)

佐藤勝彦さん有馬達さんも故人ですが、龍国寺で出会えたことに感謝!!です。

最後に、とてもユニークな木のオブジェ(花台?椅子?)の画像をアップして終わりにします。

龍国寺、今度は夫と一緒に訪ねてみたいと思っています。

見えないものを

あえて見ようと

しなくていい

見えるときが

「来るかも」しれない