ちのっぷすの徒然五行歌

CHNOPSの塊に過ぎない私になぜ意識が生じたのか

今日の五行歌241~普通のことを

およそ思うことなんでもアリのYou Tube

ちょっと長たらしい小見出しですが・・・

いやこれはもう、ほんとにそのまんま、「ふと思いついたことを、思いついたままの検索ワードで検索」したらヒットしたんですね。世の中いろんな人がいるもんだ。

その検索ワードというのは「風の歌を聴け 英語版」

なんだ、普通じゃん、と思ったかもしれませんね。たんにググっただけなら、村上春樹についてアマゾンのサイトが上位に並ぶでしょう。

でもYou Tubeに果たしてあるのか?「風の歌を聴け」の映画(?)の紹介ビデオのようなものはありましたが、英語版ではもちろんありません。

ですが、まんま英語版(Hear the Wind Sing)、それを英文解釈と共にアップしていた人がいたのです!

それはここには貼り付けませんが、ちゃっかり、非公開ブログの方に使わせていただきました。

(もうひとつ英語版の文庫を最初のページから最後のページまでめくってみせるという1分少々の動画もありました。一体どういう意図で?)

ところで、なんでまた突然村上春樹なのかというとー

20日付朝日新聞21面読書に〈売れてる本〉として猫を棄てる』が載っていたのですね。

しかも書評を書いたのが福岡伸一さん。

村上氏の本は1冊も読んだことはない(実は買ったが、読んだことのない本が1冊だけあり、それが上記《Hear the Wind Sing》)けれど、福岡氏の本なら(専門書以外は)殆ど読んでいるので、書評にも飛びついたわけです。

タイトルの「礼節ある墓標 読者にも反照」にも目が吸い寄せられました。ちょっと気障なタイトルだなとは思いましたが。少し引用します。

個人的な理由から長らく疎遠になっていた父と和解し、父を見送った後、あらためて思い至ったことについて、作家はひとつの礼節ある墓標を立てておきたかった。(中略)

片付けるものを片付け、わだかまっていたことを整理し、不可解な記憶を、捨て去るのではなく、その意味と静かに向き合うべき時が来ているのだ。

父(だけじゃなく母とも)と「個人的な理由から長らく疎遠 」だったのは私も同じ。「和解」といえるかどうかは疑問ですが、少なくとも疎遠ではなくなったのも。

しかし父を(母も)まだ「見送って」はいません。そう遠くない将来「見送る」ことになるとは思いますが、こればかりは私が先に逝くこともありえないとはいえず・・・

たぶん・・・私も・・・はやく「礼節ある墓標」を立てたいのでしょう。親の生前には決して言えない事、書けないことがあります。

大袈裟に表現するなら、これを書き切らなければ自分を取り戻す術はない(今日はシリアスな私?!)

f:id:asadakeiko576:20200620134321j:plain
f:id:asadakeiko576:20200620134346j:plain
ご近所の紫陽花

実は同じ読書の23面〈著者に会いたい〉金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』の記事(文:板垣麻衣子氏)にもこころざわついたのです。(20歳の衝撃的なデビューからもう16年にもなるのですね)

記事のタイトルは「乖離の中に存在する自分」以下一部引用します。

 エッセーの中では、夫と2人の娘、そしてたくさんの女友だちに囲まれている。だからこそ逆照射される他者とのわかり合えなさ。その空隙を、作家は書くことで埋めようとする。生きようとする。「書くことは、基本的に解放です」

「夫と2人の娘」は同じですが、「たくさんの女友だち」には囲まれていません。そもそも友だちと呼べる人がそれほどいません。ー それでも「逆照射される他者とのわかり合えなさ」は、とてもよくわかります。(逆照射とはまた秀逸な表現ですね)

こういう感覚は、自己を深く見つめる作家独特のものと言うより、誰の中にもある、いわば人間としての普通の感覚だと思うのです。ただ、普通の人は日々の生活に忙しく、そこまで掘り下げる余裕がない。物事を深く掘り下げたり、自分と真摯に向き合うのは、辛く苦しい作業でもあるので、無意識に避けているということもありえます。

その苦行に没頭できるのが作家という人たちなのでしょう。苦しいとはいえ、それを生業にできるのですから、羨ましくもあります。

さて、私、口を糊するためには、想いには蓋をして世間一般の中に溶け込まないといけません。いわば「普通を装う」のですが、一見普通の人だって、本当は普通を装っているだけなのかもしれませんね。「普通の定義ってなに?」ってことにもなりますが。

You Tube から始まってちょっと哲学的になっちゃいましたね。

このブログは公開していますから、あまりにも過激なことは書けませんし、100%本音でもありません。ですが、その時々に感じたこと、考えたことにはウソはありません。振れ幅は大きいですが、ミーハー的な自分も哲学的な自分 もどちらも自分ですし、たいていの人もまたそうだと思います。濃淡の差異があるだけなのだと。

私が五行歌をやっているのも、それが大きな理由でしょう。

ストレートに表現するのは憚られることを、五行歌で暈して、曖昧にしておけば、糾弾される危険を冒さず、わかってくれる人だけにわかってもらえます。

普通のことを

普通の言葉で

非凡に切り取る

ーそれができたら

最高の五行歌