ちのっぷすの徒然五行歌

CHNOPSの塊に過ぎない私になぜ意識が生じたのか

今日の五行歌253~いま

長崎原爆忌

今日は今日中にアップしないと、ですね。

まずは仕事に行ってきます。

 

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長崎に投下された原子爆弾によるキノコ雲

 

帰宅して、夫が作ってくれた夕食をちょちょっとを食べて、入浴後パソコンに向かってます。

私にとって8月9日は、毎年複雑な思いで迎える日。

何度も繰り返していますが、長崎に原爆が落ちていなかったら私は生まれていません。ここに存在していません。

当初の原爆投下予定地は小倉。

北九州に住む年上の友人が「小倉に落ちていたら、今の私はいなかった」と言っていましたが、私は全く反対の意味で「小倉に落ちていたら、今の私はいなかった」のです。

私に限らず、そういう人はいるでしょう。というより、この例でいうなら、少なくとも昭和21年以降に生まれた人は、そういう人ばかり、といってもよいのかもしれません。

私の場合は、父と母の結婚自体がなかったはずですから、生まれようもなかったですが、もし仮に二人が結婚していたとしても、受胎日が違えば、「私」は生まれていません。(私に似た誰かは生まれていたでしょうが)

そしてそれは私に限った話ではなく、誰にとっても同じ事。あなたわたしに似ている人は生まれていたかもしれませんが、「あなた」「わたし」は生まれていない。

原爆投下という歴史的な出来事ゆえに「もし~」と考えることもあるけれど、そういう大きな出来事ではなく、ほんの些細な事柄でさえ結果を変えるには十分なはず。

バタフライ効果、のような・・・。

だから何だ?それがどうした?

と言われればそれまでです。とにもかくにも、あなたもわたしも、生まれてきて、ここにこうして今存在しているわけですから、そんなことを考えるのは時間の無駄には違いありません。

それでも、そういう無駄なことをあれこれと考えるのが、私は大好きです。

こういうクセはきっと一生変わらないのでしょうね。

 

75年前の今日、長崎市松山町の上空で原子爆弾炸裂

「私」が生まれる僅か十数年前のこと。 

いま

ここ

でなければ

どこにも存在しなかっただろう

わたくし